『テラスハウス』から考えるドキュメンタリーと“編集”
Netflixで『テラスハウス OPENING NEW DOORS』を鑑賞しているこの頃。いわゆる「軽井沢編」だ。
そして並行して『あいのり Asian Journey SEASON2』もチェック。すっかり“恋愛リアリティショー”にハマってしまっている。
上述通り、どちらも恋愛リアリティショーと言われることが多いが、要するにこれらは最高のドキュメンタリーではないかと思う。
ドキュメンタリーは“編集”された映像
ドキュメンタリーというのは“物事は見る角度によって全く違う”ことを示すものでもあり、そういう意味で『テラスハウス』の未公開シーンは非常に興味深い。
『あいのり』はスタッフもがっつり映像に映り込んでいるが、『テラスハウス』はそうではないので、見ているとついつい誰かが意図を持って映像を“編集”していることを忘れてしまう。『あいのり』以上に。
が、未公開シーンを見ると我々が見ているのは“編集”されたもので、本編が全てというわけではない、と思い知らされるのだ。
台本がないとはいえ、カメラを向けられたり、他人の目を意識したりすれば人間は少なからず演じてしまう。意識的にせよ、無意識にせよ。
しかしドキュメンタリーはノンフィクションなのだから、そこに嘘があってはいけないと思っている視聴者があまりにも多い。
だからこそ田中優衣さんが最初の登場シーンと異なる表情を本編で初めて見せた時に、我々は必要以上に驚き、慄き、裏切られたような気持ちになったのではないだろうか(彼女のInstagramに信じがたい悪口を書く視聴者もいた)。
『テラスハウス』も『あいのり』もそこに嘘があるわけではなく、その時の彼女・彼らにとっての真実が映し出されているだけ。
そしてそれを誰かが何らかの意図を持って編集している映像を我々は目にしているだけなのだ。
ちなみに『テラスハウス』は副音声を聞きながら観ているのだが、これもまたミスリード(?)に一役買っているように思う。めちゃめちゃ面白いけど。
ここでは『テラスハウス』『あいのり』の例を挙げたが、要するにこれは『ノンフィクション』なんかのドキュメンタリーとも通じるので、あくまで誰かが編集した映像である、という視点でドキュメンタリーを観た方が良いのでは、と。
そしてカメラを向けられれば人は何かしらを演じることもある、ということ。
(要するに、軽井沢編、終わるの寂しいです)